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恣慾

 久々のTHE BACK HORNである。生憎アルバム『アントロギア』のツアーには行けておらず、彼らを最後に観たのは昨年11月のマニアックヘブン・ツアーでの心斎橋BIGCAT公演であり、11月ぶりとなる。

 前方スタンディングで暴れるという習慣が各地のヴェニューから失われて久しい。もう誰もが慣れきってしまったCOVID-19パンデミックだが、欧米ではもう既存の感染症と同等の扱いとなったのか以前と同様の日常生活を送っている地域もかなり多いようだが、この国では何となくタイミングを逃しているのか、或いは言い出しっぺになって責任を取らされるのが嫌がられているのか不明であるが、概ね緩やかな雰囲気には変わりつつも、まだ公共の場では各自が(例えポーズであっても)感染症対策をやっているという格好を余儀なくされるような状況は続いている。

 当然、激しい演奏でオーディエンスの身体を揺さぶるような音楽性の出演者ほど抑制的な状況を強いられてきたと言えるだろう。

 

 THE BACK HORNも、そのようなバンドの一つだろう。国内各地のロックフェスティヴァルにおいて常連パフォーマーとして登場するバンドの代表格の一つとして、この20年間のシーンを牽引してきた。中でも特に、“声”、“戦う君よ”、“シンフォニア”、“無限の荒野”、“刃”、そして何よりも“コバルトブルー”は、オーディエンスに層を超えた大合唱を促す定番ナンバーとして、会場の人々を爆音の渦の中に否応なしに巻き込んできた。

 そういった、人と人とを「密」なる皮膚感覚の混沌に放り込み、日常的には禁圧されている「全身の血が沸騰し、個々人の内なる絶望の真っ暗闇の中から火山の噴火のように底力が湧き上がるような感覚」を呼び起こすような楽曲たちの需要と供給を根っこから支えているスタイルと身体性が、「今は大人しく見ていろ」と数年の<ドクターストップ>を喰らってきたわけだ。

 

 筆者としてもフラストレーションをずっと抱えていろと言われることに耐え難い苛立ちを持ち続けてきたわけだが、バンド側にはそれ以上のものがあるだろう。

 特にヴォーカルの山田将司は、2019年末にツアーの真っ只中で喉を潰し声を出せなくなってしまった。その後、ポリープの診断を受け筆者がチケットを購入していたものを含む残りの公演を中止として手術に望み、ようやく復帰かと安堵していた矢先に、帰って来るはずのライヴ・シーン自体が存続を危ぶまれることになったのである。そのフラストレーションは想像に難くない。

 とりわけ、近年のバックホーンと言えば、2018年のミニアルバム『情景泥棒』以降、世間の自他に対する波風立てない在り方、一種の平穏の中で心身を互いに揺さぶるまいという、或る意味で保守的で抑圧的な風潮に対しての疑念と不満を皮肉交じりで突きつけてきたわけである。

 

 「がんじがらめがらめ/一度ミスッたら即終了」「モザイクかけとけ 子供の股間にも/危機管理能力 マジ半端ないっすね」(“がんじがらめ”)

 

 そういう意味で逆風に突進するかのように前進し続けてきたような状況下で、行く先を阻むような出来事が続いて来たのである。フラストレーションに対する爆発力を最大の武器とする反逆的な日本語ポスト・グランジ・バンドとしての彼らが、である。そのフラストレーションは言うまでもない。

 筆者も、そういうところでは近年の自分の状況、背負っていた鬱屈とした気分、打破して行こうとした壁、自らに課した姿勢などにおいて、彼らに深く「共鳴」し、歌に心を重ねながら、自分なりにそのニュアンスを手探りし、多くのことを確かめ、見直し、決意することを繰り返す日々であった。

 今、この極めて微妙な時期において、東京大阪2箇所の野音公演を実施したのは正解であろう。ライヴハウスで床に描かれた目印の上に立ってハミ出ないようにしろと言われても、却って日常生活以上の抑圧を感じてしまうだけだ。屋外で座席が立ち並ぶ中でというのは正解だろう。

 メジャー初期の頃から野外音楽堂でのステージ、その中での「夕焼け目撃者」は恒例の大イヴェントとして、出演者にとっても、オーディエンスにとっても、通常公演とはまた違う気合で以て臨まれてきたものだった。

 長くなったが、これは足を運ぶ他あるまい、というようなショウだったのである。

 

 

 幕開けはメジャー1stアルバム『人間プログラム』の1曲目“幾千光年の孤独”であった。空の色も何となくぼんやりと薄くなってきたような物憂げな時間帯、あのおどろおどろしくも全身の神経を引きちぎらんばかりにギラつき尖ったギターのリフが響き渡り、辺りの空気がそれに鈍く重たい質感と色彩を与えられたかのように不穏にどよめく。そこにリズム隊による図太い重低音が重なるように轟かされ、場内だけに真っ黒い重力圏が形成される。

 「モノクロームの世界に/朝日はもう昇らない/絵画に閉じ込めた向日葵/幾千光年の憂鬱が/降りそそぐ ビルの底/顔のない人々が泣いた/思い抑え届かぬ 宇宙の果て/太陽のたてがみが揺れてる」(“幾千光年の孤独”)

 まるで人々が腹の底に溜めているもののメタファーであるかのような言葉とともに、いきなりどん底から黒く哀しい感情を吐き出していく。

 ステージの上空を、カラスがびゅんと突き抜けていった。鳴り響く苦悶の轟音が、辺り一面を飲み込んでいく合図だとでも言わんばかりに。1曲目は“レクイエム”を予想していたが、間違いなくこちらが正しいのだろう。

 

 そこから意外にも後悔と自己嫌悪にのたうち回る主人公の後ろ向きで情けない姿が特徴的な“金輪際”、そして濁った大空をを睨みつけるように「俺」たちの孤独な戦い歌う“涙がこぼれたら”に繋いでいく。この時点で、それはもうとてつもないやる気を感じずにはいられないのだった。

 辺りが薄暗くなり始めた頃、男たちの鬱屈した労働歌である“ファイティングマンブルース”では、「たまにゃヌイて息を抜け/ああ それでも愛しいエンジェル」と体をくねらせながら、マイクスタンドにもたれかかり、手淫するような仕草をするという、山田の煽情的なパフォーマンスが目を引いた。野外ステージだからこそか、遠慮なくダークでディープな世界を見せつけていく。

 虫の声やヘリコプターのプロペラの音が響き渡る大阪城音楽堂に、青・赤・白の証明が飛び交うステージの中で演奏された最新曲“疾風怒濤”に次いで、何よりもハイにさせてくれたのはシングル『コバルトブルー』に3トラック目のカップリング曲として収録されている“カラビンカ”であった。この「紫の煙を吐いて」「渦巻く金色の空」へと浮遊して連れ去るエキゾティックなフレーズが特徴的なグランジ・サイケデリアの終盤は、ライヴ・ヴァージョンではフリーセッションのようになると決まっている。モニタースピーカー横のお立ち台で踊りだす菅波栄純(ギター)とそれに向き合う形でうねうねとフレーズをループさせ続ける岡峰光舟(ベースギター)、山田がギターでガンジス川のほとりでヨガのポーズを取るNIRVANAのようなリフを弾くと会場の全てをノイジーなディストーションギターの音で充満させ、ますます沸騰させていく。

 そして、この曲で散々大暴れした後、虚脱状態に入るように“何もない世界”に突入するのが、まるで所謂「賢者モード」のようで凄く印象的であった。

 

 この日、もう一つ非常に印象的だったし、ベストアクトだと言えたのは“ひとり言”だった。アルバム曲・B面曲を含めて新旧織り交ぜて演奏された22曲の中で唯一インディーズ期に生み出された、しかしTHE BACK HORNの歴史の中でも特に傑作として名高い1曲だ。

 「どす黒い線が空を切り裂いてる」というフレーズとシンクロするように、先程カラスが飛び去った暗い空のあたりを真っ黒い一本の電線が突き刺すように通っていた。完全に日が落ちたこの頃、ステージにへたり込んで「僕は一人じゃない僕は一人じゃない僕は僕はこのままじゃいけない!」と悲鳴のように歌う山田とそこから爆音で全ての内なる鬱屈を暴風雨に変えてしまうかのような3人の演奏が圧巻だった。間違いなく、以前梅田クラブクアトロのツーマンで聴いた時よりも圧倒的に良かった。

 ただし、この日既に、山田の喉にはかなりの負担がかかっていたようであった。前半のここまでで本気を出しすぎていたのか、このあたりから終盤にかけては声を出すのがとても苦しそうに感じられた。

 山田が元々のがなるような歌唱スタイルは踏襲しつつも、極力喉を開くことによって、声帯に対する負担を軽減させようとする方法を段階的に採用していったのは周知の通りである。

 この日の発声も無論そうであったし、指導が入ったのか、復帰後の山田においては特に繊細な調整をするのが上手くなっているように感じられていた。

 昨年のマニヘブツアーにおいては、前半でやり過ぎないように上手く加減し此処数年では最後までコンディションをキープして歌っていたのを見て感心したのを覚えている。

 しかし、この日は流石に飛ばしすぎたようだ。“幾千光年の孤独”、“ファイティングマンブルース”、“悪人”、“何も無い世界”、そして“ひとり言”と、単にキーが高く激しいだけでなくクセの強い叙情的な歌い方を要求されそうなナンバーが続いていたので無理もないが、この流れの中で無意識のうちに力を込め過ぎていたのではないだろうか。

 オーディエンスが声援の代わりにスマートフォンのライトで照らすというひと工夫を凝らした“世界中に花束を”の後はラストスパートに入るのだが、“希望を鳴らせ”、“Running Away”から最新作より“ヒガンバナ”を挟んで“コバルトブルー”に来る頃には、ステージ上を駆け回りながら自分が吐いた二酸化炭素を吸って声を絞り出してるかのような状態になっており、普段出さないような部分で裏声を出しているのも目立った。

 バックホーンのステージでは基本的に山田が激しい動きをしながら叫ぶことが多いため、当然彼が吐く息も普通多くなるわけで、そこにも発声にとって負担となる要素がまた潜んでいると言えるわけだ。

 だが、実際それぐらいでなければ、つまり、あまりにも縮こまったステージングを見せられても我々がバックホーンに求めているものとしても、本人たちが表現しようということという意味でも、「何か違う」ということになるのだろう。

 過酷なロックバンドである。常軌を逸して「過激」なことなど何一つやってはいないが、兎に角「過酷」なところまで足を踏み入れかけなければ気が済まない衝動は、昔から変わらないようである。そこに求められている表現は普通よりも一個の生命体としての力を振り絞ったような人間の一欠片の野性である。見ている側もそれを奮い立たせたいのだ。そのパフォーマンスには多大なる敬意を払いたいものである。

 本来であれば、このあたりで部分的に客席からの大合唱に力を借りることで残りのエネルギーを配分しながら使うことになっているのだろうが、状況がそうはさせてくれない。これは見ているこちらとしても苦々しく、もどかしい思いがあった。

 

 しかしその一方で、相対的にかなりの安定感を感じられたのはギター菅波とベース岡峰、そしてドラムス松田によるコーラスであった。

 2010年代以降特に「おーおーおー」というコーラスに重きを置いているようなアレンジの曲が増えていったように思うが、名曲“悪人”の「有罪、有罪、有罪、有罪。」コールに始まり、“希望を鳴らせ”、“Running Away”のサビにおける曲名のフレーズを発する部分など、いつどこで破綻するかとハラハラさせる山田のヴォーカリゼーションが、バックの3人の声によって相当支えられているということがあらためて伝わってくるステージであった。

 ライヴにおける合唱などには是非があるが、バックホーンには是非とも“コバルトブルー”の大合唱を取り戻してほしいものである。

 

 アンコールまでの休憩を挟んでのアコースティックナンバー“風の詩”、そして隠れた人気曲である“導火線”を挟んでの“太陽の花”で、第4回「夕焼け目撃者」大阪公演は締めくくられた。

 “希望を鳴らせ”、“太陽の花”といった新しい疾走曲がスタメンに組み込まれている分、“声”、“シンフォニア”などの定番ナンバーや、一時期よく演奏されていた“グローリア”、“ビリーバーズ”、“魂のアリバイ”あたりは聴く機会がなくなってしまっているので、これからどんどんライヴをやって時にはまた何かの機械で演奏されてほしいものである。

 何にせよ、次は東名阪における「マニアックヘブン」である。またしても御無沙汰な曲たちを久々に、或いは初めてライヴで聴くことになるのでとても楽しみだ。個人的には“ゲーム”が聴きたいが、あの曲も負担が凄そうなので、やはり喉を大事にしてほしい。「声がなくても歌えるから」で終わる歌詞ではあるのだが……。

 

文責:佐藤直哉

 「ふざけ過ぎて 恋が 幻でも/構わないと いつしか 思っていた」「僕の」、「夢の粒も すぐに 弾くような/逆上がりの 世界を見ていた」「僕の」、「一度きりなら 届きそうな」「楽しい架空の日々」ばかり思い浮かべての、頭の天辺からの飛び込み。
 
 溢れる思いとともにどんどんと胸が打ち震えていくような鼓動を感じる、曲の真ん中に2度あるサビで、必ず行き着いてしまう、あの虚脱。
 「それが 全てで 何もないこと」を「近づいても 遠くても 知っていた」のに、「壊れながら 君を 追いかけてく」のだと、宣う。

 きっと、『フェイクファー』に入るべくして入った、というほかないのだろう。
 通のリスナー諸氏にはお馴染み、自由や永遠という名の<無>であると解っている方に全力で走っていく、マゾヒスティックな空元気の、謂わば「空(から)」の部分。
 それは、「飛べるはず」の、「空(そら)」と同じなのだろうか。


 ジェット!ジェット!ジェット!いつだって、ジェット!ジェット!ジェット!ほらね。僕は空を突きぬけるさ、音より速く……ってか? いやあ、ROCKだ。

Livedoorが更新しやすいかなと思ったので。

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